「世界は一冊の本」を無駄に暑苦しく語る

みなさまおはこんにちばんは。
1ヶ月につき一投稿を目指して挑戦中のnagikoです(笑)。
今回は、6月にある合唱祭で演奏予定の「世界は一冊の本」について、私が個人的に思うところを無駄に暑苦しく語ろうと思います。
最初にお断りしておきますが、本っ当に無駄というか、正直「どうでもいいじゃん」的な内容ですのであしからず。

 さてこの「世界は一冊の本」という曲ですが、まずはラストに注目したいと思います。
 曲集全体のメインタイトルでもあり、この曲のタイトルにもなっている「世界は一冊の本」という言葉が唯一出てくるのが、ラストから数えて2ページ目の冒頭、私たちが便宜上「G」と練習番号を付けている部分であります。
 ただしこの言葉、原詩をよ~く読んでみると詩としては出てこないんですよね、実は。
 一番近い言葉が「一個の人間は一冊の本なのだ。」という部分ですが、「世界は一冊の本」という言葉は曲集全部を見てみても一切出てきません。
 また、この曲は
  本を読もう。
  もっと本を読もう。
  もっともっと本を読もう。

という言葉が冒頭と末尾を繰り返し飾っています。
 この言葉の間に、「本だ」と呼べる(と作詩者が判断した)様々な状況や事象がすべて三行詩で収められています。
 何故、作曲者は原詩に出てこない「世界は一冊の本」という言葉を末尾に敢えて入れたのか。
 私はその理由を、個人的にこう考えます。「『世界は一冊の本』という曲集(=一冊の本)自体が一つの『世界』なのだということを表したいのではないか」と。
 10年以上合唱をやっていると、本当に色々な曲と巡り会えます。詩や曲の個性は様々あれど、そのどれもに一つの「人生」があり「世界」があって、私はその「世界」をどこまで表現できるかということにいつも執心して歌っています。
 曲ごとに詩ごとに、そこには世界があり、そしてその世界がある限り私たちは「合唱」という手段を通して様々な「人生」を垣間見ることが出来る、これが合唱の醍醐味であり歌の素晴らしさだと感じています。
 その象徴が「世界は一冊の本」という曲であり、「世界は一冊の本」という言葉なのではないかと、そんな風に私は考えている次第です。
 以上、予告通り無駄に暑苦しく語ってみました「世界は一冊の本」ですが、次回は(←次回があるのかよw!)クレシェンドで始まる冒頭とデクレシェンドで終わるラストの違いについて、またまた更に暑苦しく語りたいと思います。

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